新潟古本屋日記

新潟市の古本屋、フィッシュ・オンのブログです。
古本屋をはじめてはやいものでもう10年。色々と移転しながら現在は沼垂テラス商店街で営業中です。ブログでは入荷した古本、おすすめ本、読書会、イベント出店の情報など更新しています。
「二流の人」と安吾史観
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    「つぶて」前号の編集後記で「もし次号を作るなら安吾をテーマに…」ということだったので何を書こうかなとフィッシュ・オンにある安吾本を物色していたら『二流の人』という歴史小説が目についた。(講談社文芸文庫『桜の森の満開の下』収録)。

     

    歴史小説は膨大な史料を集め、読み込むようなある種の勤勉さがなければ書けない。そう思っていたので、「堕落論」で有名な安吾が歴史小説をものしていたとは意外だった。

     

     安吾の年譜を調べてみると、終戦前年の昭和十九年に「徴用のがれのため日本映画社の嘱託となり、歴史書を多読する。」とあり『二流の人』は昭和二十二年に刊行されている。ちょうど前年に『堕落論』と『白痴』を発表し、新文学の旗手として太宰治や織田作之助らとともに「無頼派」として脚光を浴び、作家として充実していたころの作品だ。

     

    肝心の『二流の人』だが、信長、秀吉、家康らの天下人を「一流の人」とするならば、策略縦横、深謀遠慮の鬼才ゆえに彼らに疎まれ、警戒された黒田如水(官兵衛)が「二流の人」として描かれる姿が軸となる。時代に取り残されそうになりながらも、どさくさまぎれの天下を狙う黒田如水。その他にも前田利家、石田光成、直江山城守(兼続)、小西行長らが安吾独特の視点で描かれめっぽう面白いが、これらを「一流」か「二流」とするかはぜひ自ら読んで判断してほしい。作家として脂の乗り切った安吾自在の語り口はテンポよく、小説に引き込まれるだろう。

     

     さて、歴史小説を書くためには当然史料は欠かせないが、それだけでは歴史小説は書けない。史料には記されていない歴史の間隙、そこに書き手が歴史をどう観るかという独自の視点が必要になる。それが史観と言われる。有名なところで司馬遼太郎の「司馬史観」などがある。

    それでは安吾はどのような史観をもって歴史小説を書いたのだろうか。

    『安吾史譚(河出文庫)』に、安吾みずからの史観を直接語っている文章をみつけたので以下に引用する。

     

     特殊な時代感情の把握なしに歴史の動きは理解できないものだ。

    そして、時代感情が現実を支配するということに於ては、歴史も現代も区別がない。

    史書からそれを知り得るのではなく、もっと生々しく、また強烈に、現代と自分との結びつきやその内省によって省察しうる事柄であろう。私が歴史に興味をもったのもそのためで、ここから出発する歴史は、現代と区別のないものであるし、人間そのものの動きということにほかならない。」(『安吾史譚(河出文庫)P61より) 

     安吾は歴史の間隙を「現代と自分との結びつきやその内省によって省察」することによってつないでゆく。安吾にとっては戦国時代であろうが自らが生きた大正・昭和であろうが、そこに生きているのは同じ生身の人間であり、登場人物たちは激しく憎み、嫉妬し、怒り、夢破れたものには悲しみが宿る。安吾にとっては「人間そのもの」が歴史なのだ。

    「二流の人」ではあるが「何度も失墜しては浮かび上がる」如水を愛したからこそ、安吾はこの小説を書いたのだろうし、日本海側(裏日本)では栄えているけど関東や関西に比べたら「二流の都市」新潟に住むものとして、さらになかなかうだつの上がらない「二流の古本屋」の身としては愛さずにはいられない小説となった。

    | | 05:28 | comments(0) | - |
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